第二回入賞作品
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桜賞
砂糖さん
川の中の化け物
[ショートショート]


僕は熱心に川の底を見つめていた。そこから襲い掛かってくるであろう化け物を待っていたのだ。

僕は朝から晩までそうして過ごした。だから周りの大人はとうとう気でも触れたのかと囁き合っていた。そして気味悪がり、汚いものを見るかのような目で僕を見て、時には石を暴言を投げ付けた。孤独には、痛みには慣れていたし、何を今更、とだけ冷ややかに思った。

僕は幼い頃から蝶の言葉が分かった。それだけじゃない。大地のむせび泣く声も、天の王の悲鳴も、聞こえた。

当時の僕は、これが普通ではないということを幼心ながらに分かっていたから、ぐっと口を結び続けた。それに、これが周りへ知れてしまうと、もう何も聞こえなくなってしまう気がして怖かったのだ。それは望むようなものではない。少なからず。

だから誰も僕の秘密は知らなかった。しかし気味悪がるようになってしまったのは、僕の行動故であろう。

僕は声を音を聞くためであれば一月も地に耳を押し付けていたり、羽をもがれた蝶のそばを死ぬまで付いてやったりした。
皆の嫌な視線には気付いていなかった。本当だ。

最初こそ気がどうにかなりそうだった。耳をつんざくその音が全身に伝ってびりびりと震える。そして凄まじい高音。
それは確かに、人の声なのだ。しかし人から発せられるようなものでもない。
人なのに人ではない。

時が経つほどに僕はそれに慣れてゆき、今はある種の中毒のようになってしまっている。
その声に。その叫び声に。

僕は熱心に川の底を見つめていた。そこから襲い掛かってくるであろう化け物を待っている。

化け物というのは、僕が度々聞く蝶からの噂であった。
モンシロチョウは情報収集力が優れている。僕はいつしか彼らを道具としか思わなくなった。

僕は成長し、たくさんの声に巡り合うにつれ、世界中の人ではないものの声を聞いてみたいと、思ったのだ。
多くの苦しみ堪えるような悲鳴。それぞれに違う響きがあり、色がある。
僕は興奮し、快楽を得た。

川には化け物がいる。
その化け物は川に落ちた人間を飲み込み、二度と正気に戻れないように精神を狂わせてしまうらしい。
それは時には幻聴や錯覚を引き起こし、自我を見失わせ、最後にはまた川に飛び込んでしまう。
二度目に川に落ちたが最後。憂き世にも黄泉にも辿り着けず、永遠に化け物の腹の中で苦しみ続けることになる。

僕はそれに興味を持った。なぜなら化け物は歌をうたうことが出来る、と蝶から聞いたからだ。

歌。僕はあらゆる悲鳴を聞いてきたが、人ではないものの歌は聞いたことが無かった。
どんな声で、呪いのような歌をうたうのだろうか。想像もつかなかった。

時間も忘れただただ水面を睨み続けた。さっきからやけに静かだとぼんやり思いながら。

キーン、と嫌な耳鳴りが聞こえはじめる。これはいつもの前兆だった。
僕はここぞとばかりに神経を集中させ、不要なものを遮断する。意識は目の前に怪しげに揺らめく水面のみ。その中に潜む、恐ろしい怪物のみ。

そうしていたから、後ろから近づく軽やかな足音に気がつきもしなかった。
それどころか、とん、という音も、背中を押される衝撃も、神経を集中させていた僕には届かなかった。

体がバランスを崩し、水面へ落下してゆく。それを目の当たりにしてやっと、自分の状況を把握した。
驚き声を出す暇もない。

そもそも、周りの音を一節でも聞き逃さないためにと、普段から僕は滅多に声を出さずにいた。

水面に接触する寸前、川の中に黒い大きなものが見え、それはこちらに向かって口を開いていて、僕は丸ごとそれに飲み込まれてしまった。
暗闇で渦巻く意識をかき集めようとするが、水に拡散し溶けてゆく。
僕の体はぐるぐる回る。
必死にもがき、上がろうとするが何かに足を手をとられ、そして赤黒い化け物の腹の中へ落ちていった。

何をそんなに必死になる?誰かにそう言われた気がした。
しかし僕は答えられない。どんなに深みに嵌まったとしてもだ。
なぜなのか、分からなかった。
なぜ僕は必死になるのだろう。


気が付くと僕は揺られていた。
視界は相変わらず赤黒い。化け物の中なのだろう。
水が生温く体に当たってゆっくりと跳ねる。

ふいに、何かの音が聞こえたような気がして、耳をそばだてる。
集中する意識は、僕を攪乱させるものは無くなってしまった。

微かに、聞き覚えのあるメロディーが耳に届いた。女性の声だ。これが化け物の歌なのだろうか?

時々途切れるその声は愛情を孕んでいた。懐かしい歌。

それは僕が母のお腹の中で聞いた子守唄だった。

最初に聞いたのは、人間の声。その次には、人ではない声。誰かの、母の。

そこで気付いてしまった。


僕は以前もここにいた。
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