第五回入賞作品
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僕と歌姫


佳絵さん�
[恋愛]

 彼女は歌姫。
 美しい声で観客を魅惑するのが彼女の仕事。
 聞く者全てを虜にする、彼女の紡ぐ旋律。
 そんな彼女に魅了できないものなんて、きっとこの世に存在しないのだ。



「紅茶がぬるいわ。」
 そう言っては、彼女は僕に紅茶の入ったティーカップを投げつける。
「このお茶菓子は気に入らないわ。」
 そう言っては、彼女はお菓子を踏み潰す。
「このドレスは着たくないわ。」
 そう言っては、彼女は僕を本番三時間前に仕立屋まで走らせる。
「つまらないわ。」
 そう言っては、彼女は僕にダーツの的になるように命令する。

 どんな彼女のわがままも聞き入れる。
 それが僕の喜びで、仕事。
 サーカス一の歌姫の付き人の仕事は、危険でありながら僕にとっては至上の喜びだった。
 何と言ったって、僕を魅了したこの美しい人のわがままを聞くことができるのだから。

「もうサーカスを辞めたいわ。」
 また、彼女がわがままを言う。
 でも今回は僕には叶えられないわがまま。
「それは駄目です。」
「どうして?」
 僕は貴女と貴女の歌を愛していますから。
 これが僕の本音。
 でも、僕は本音を言わない。
「貴女の歌を待っている人がたくさんいますから。」
「サーカスじゃなくても歌は歌える。」
 そう言うと、彼女は歌い始めた。

 普通は、器楽の伴奏に乗せて歌われる合唱曲。
 それがこの曲の正しい形だ。
 しかし、彼女はそれを無視して、無伴奏で一人で歌う。
 だけれども、それは今まで聞いたこの曲の中で一番素晴らしくて。

 歌い終わると、彼女は冷たい目を僕に向けた。
 空のように澄んでいる、氷のように冷たい瞳。
「ね?」
 はい。
 そう零れそうになる言葉を、僕は慌てて飲み込んだ。
「でも誰も聞いてくれないじゃないですか。」
「一人が聞いてくれればじゅうぶんよ。」
 そう言って彼女は紅茶を口元に運ぶ。
 けれども、そのティーカップは僕に向かって飛んで来た。
「ぬるいわ。」
「すぐ新しいのを持ってきます。」
 ぬるいと怒るけれど、彼女は熱い紅茶は飲めない。
 なぜなら猫舌だから。
 僕は割れたティーカップを拾って彼女の前から姿を消した。



「サーカスを出て暮らしたいわ。」
 彼女がまたわがままを言う。
 また、僕に叶えられないわがまま。
 おこがましいことはわかっている。
 けれど僕は苛立った。
 僕が叶えられるわがままだけ言ってくれればいいのに。
「サーカスを出てどうするんですか?」
「バーで歌うわ。」
「でも貴女は一人じゃ生活できないでしょう。」
 そう、彼女は僕がいないと駄目なのだ。
 数々の付き人が彼女のわがままに耐えられない中、僕だけが残った。
 僕だけが彼女のわがままを聞ける。

 彼女は溜息を吐く。
 甘い甘い吐息。
 その吐息に音が乗ると、それは何とも言えない甘美な響きとなる。
「貴方がいるじゃない。」
 嬉しい。
 彼女は僕を付き人として認めてくれているのだ。
 だったら彼女と一緒にサーカスを出てもいいかもしれない。
 けれど。
 僕が雇われているのは、彼女ではなくサーカス。
「団長がお暇をくれないことにはどうにも。」
「そう。」
 彼女は椅子に座る。
 ワンピースを翻し、椅子に座るその動作だけでも優美だ。
「――この椅子にも飽きたわ。」
 そう言うと、彼女はドアを指差した。
 僕に行け、という合図だ。
「すぐに椅子を買ってきなさい。気に入る物じゃなかったら承知しないわよ。」
「わかりました。」
 僕は彼女に背を向ける。
 目指すは家具屋か、アンティークショップか。
 ドアが閉まる時に聞こえた溜息を、僕は気づかないふりをした。



「愛されたいわ。」
 これは、わがままなのだろうか。
 僕は彼女の言葉がにわかには信じられなくて、固まってしまった。
 すると彼女は不機嫌そうに美しい顔を歪ませて、僕を睨みつける。
「聞こえなかったの?」
「聞こえました、けど……。」
 誰に愛されたいというのか。
 愛して恋して尽くした僕の歌姫。
「貴女は皆に愛されているじゃないですか。」
「違うわ。」
 彼女は小馬鹿にしたように言う。
 そんなこともわからないの?と言うように僕を見る。
「皆が愛しているのは、私じゃなくて私の歌よ。」
「同じでしょう?」
「違うわ。」
 貴方は本当に馬鹿ね、と彼女は言う。
「貴方も私の歌しか見ていないのね。」
 とても腹が立った。
 僕はこんなに彼女を愛しているのに。
 わがままな彼女ごと愛しているのに。

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